自己超越主義的視点で見る作品の解釈
概要
作成. 公開.
以下の2ページで紹介した自己超越主義を踏まえると、文学や映像を含む作品はどう読めるのか?
作品の内容に踏み込むため、以下の作品に気になるものがあれば先に視聴することをおすすめする。
ひとまずは3作品を考察したが、更に追記すべき作品があれば追加したい。
『人間の土地』 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 作
作者であるサン=テグジュペリが郵便飛行士として勤めるなかで、配達先の人々や僚友との思い出や極限状態の体験を記したエッセイである。
『人間の土地』だけでなく、同作者による『夜間飛行』や『星の王子さま』を通して、「関係性の美しさ・唯一性」に対して非常に価値を置いていることが読みとれる。
- 郵便飛行士として手紙(=人間関係やコミュニケーション)を届ける強い責任感
- 同じ境遇を共有する同僚との連帯感、仲間の唯一無二性
- 配達先で出会った人々の生活や態度の様式から見出す美しさ
- 独自の文化を超えて存在する関係性の称揚
- 夜間飛行中の、全人間関係から隔絶された孤独感
- そして地表に戻った時の、人間性の再発見の尊さ
命の危険を侵してもなお配達を続けるのは、上記のような瞬間を作者が愛して止まなかったからであろう。第二次大戦中に単機出撃後、帰還せず消息を断つ——最期まで飛行機と共にあった。
特に着目すべきは、彼を含む郵便飛行士達の生への拘りである。
たとえ郵便物を持ち帰れない状態でも、必ず生きて帰ろうとする強い執念が記されている——僚友ギヨメがアンデス山脈で不時着しつつも帰還する部分と、作者がサハラ砂漠を彷徨った後生還する部分である。
彼らがなぜ諦めなかったのか。
それはギヨメが語ったように、妻への保険金が支払われるかどうかのみであろうか?確かに家族とはかけがえのない価値の一つではあるはずだが、私には、ギヨメが僚友らに正直に話すのが気恥ずかしかったために、おどけて保険金の話をしたのではないかと空想する。
つまり、ギヨメ自らの死を心から悔やんでくれるであろう人々がいること確信していたからこそ(それは勿論妻だけでなく僚友もだ)、彼は力を振り絞って数日もの間凍えながら歩くことができたのではなかろうか。
そして作者が砂漠を踏破した時にも、この時のギヨメの姿とその成し遂げた事への敬意の念が、彼の脳裏を過ったに違いない。
自分自身だけでなく、自分が持つ超越価値に対しても最大限の敬意を払ってくれる人々がいて、そのような人々のために自分は超越価値を果たす責任がある——このような価値と関係性を構築することは、自己超越主義にとって理想とする姿でありかつ、これを構築「せざるを得ない」ほど過酷な現場だからこそ、これが成立しているとも言うことができよう。
パートナー・友人・同僚などの関係性を問わず、自分だけでなく自身の超越価値の称揚すらも合わせて認めてくれる人を見付けることは、自己超越主義として非常に大きな支えとなることは間違いないだろう。
願わくば、自分も近しい他者に対して、同じように彼の価値ごと認められるような人間でありたい。こう思うことも自己超越主義者として重要な態度であると考える。
『チ。-地球の運動について-』 魚豊 作
地動説の勃興期にて、支配的な宗教の下で真理を追求することの困難と、自己の死を越えて人を動かし続ける思想を描く。
地動説を擁護する、いわゆる異端側は命を賭けてすら地動説を守ろうとする一方、地動説を異端とみなす教会側は基本的に信念というよりも自己の安寧のために生きているという対比として、自己超越主義目線では見ることになる。
第一章で登場するノヴァクは、娘を養うために異端審問官として活動している元傭兵である。彼は必ずしもこの立場で生きる必要があったかと考えると、そうであるとは言い難い。
彼は司教のような上の立場の人々には追従する一方、異端と見做される相手(彼が担当するのは宇宙論に関する異端である)に対しては容赦しないことから、自己の信念よりも、立場や利益を優先する姿で描かれる。
一方でラファウは、それまで天文は趣味なだけで、世渡り上手な合理主義的価値観を持つ少年として登場した。しかし天文学者だが異端者とされたフベルトから託された地動説のことを考えると、非合理的でありながらも、地動説を守るために行動してしまうのだ。
自己超越主義は、自己を犠牲にしてまで価値を守ろうとする態度を指すものではない。
しかしもしラファウが、思想に対して異端として死刑となる時代背景で生きていなければ、彼は正当に自己の論点を主張することはしたであろう。この点において現代の我々は幸運であると言う他ない——つまり時代が違えば、自己超越主義的な態度は死に値する可能性があるということである。
第二章では、代闘士のオクジーとグラスが、現世における希望について対称的な意見をもって登場する。オクジーはこの世界の無意味さを嘆く一方、グラスは火星という軌道が変わることのない1絶対的存在の観測に安寧を見出す。
この後グラスは失意の中で命を落とすことになる一方、グラスの言葉を頼りにしながらもこの世に肯定的になれないオクジーが生き延びることになるのは皮肉である。
バデーニの存在は自己超越主義として興味深い。彼はかなり自己中心的な地動説の擁護者となる。彼は自身の能力でもって地動説を完成させるという野望を持ちながら、それも叶わず処刑される。
彼は確かにエゴイスティックではあったが、地動説との関わりに生きる意味を見出したオクジーの利他的な態度や書き進める本に触れ、徐々に自己の存在・業績よりも地動説を残すことに天秤が振れていったように見受けられた。
ヨレンタはバデーニとオクジーと共に研究しながら、ノヴァクの娘である点と偶然が相まって死罪を逃れる。彼女は地動説をいかに広めるかという使命を背負いつつ、第三章で大立ち回りをする部分は第一章のラファウに近い存在である。
第二章で忘れてはならないのが、ピャスト伯である——彼は天動説の修正に生涯の殆どを捧げていながら、天体の見せた一瞬の真実を自身の説との不整合のために見逃がす。自説に固執した彼の晩年、地動説の証拠としてこの事実を突き付けられたピャスト伯は、失意の中斃れる。
ピャスト伯は高名な学者であり、その熱意は自己超越主義的と言って差し支えない一方、自説に固執させたのは彼のエゴと、掛けた時間という埋没費用を惜しんだ態度のためだ。自己超越主義が個人主義を軸としてエゴの批判から出発するのは、まさにピャスト伯のように「超越価値を絶対視しない」ためである。
その点で、ピャスト伯はエゴと埋没費用によって自己超越主義者たり得なかったし、グラスは自己の無知によって自己超越主義者たり得なかったと考察できるかもしれない。とはいえ、この二人は自己超越主義的には高位の誤ちを犯した存在であると考えていて、彼らが超越価値を見付けてから「裏切られる」までは、充実した人生を歩めていたのではないだろうか。
第三章では、シュミットやヨレンタという典型的な自己超越主義的キャラクターがいる一方で、ドゥラカという興味深い登場人物がいるので、彼女を掘り下げたい。
ドゥラカの持つ信念は「死にたくないから稼ぐ」という利己的とも取れるものでありながら、第二章のバデーニのような自己中心的とも言い難い、アンビヴァレントな価値観の持ち主である。
彼女の思想の中心には父の死があるわけで、死んでしまえば稼いだ財産は無に帰すということは分かっているようにも思える。シュミットやヨレンタの組織である異端開放戦線と接する内に、彼女の態度は徐々にヨレンタへの協力へと向かう。
彼女の財産への信念は、生存のための防衛機制から来るもののようでいて、どこか超越価値として財産を——父の形見の硬貨を概念として——捉えているようにも見える。
最終章ではラファウがアルベルトの家庭教師として再登場2する。
ここでのラファウは「真理を追い求めるためなら何でもする」という態度であり、ここでは第一章で見られた正の側面ではなく、研究内容を秘匿しようとする者の殺人という負の側面を提示する制作的な意図があったと考えられる。
法的・道徳的モラルを伴わない(少なくとも躊躇しない)態度に立脚する超越価値を、自己超越主義としては認めることは難しいだろう。
なぜなら、自己超越主義は他者の超越価値もまた尊重する立場3であるからだ。
総合的には、望ましい自己超越主義と、自己超越主義の失敗例を同時に理解できる稀有な作品である。
『大衆の反逆』 ホセ・オルテガ・イ・ガゼット 作
1920年代後半に著されたエッセイで、1930年代にヨーロッパを席巻した文明論である。
大衆は、自らを普通の人であるとしながらも、その権利を主張する存在として描かれる。大衆はまた、自分が周りの大衆と同じであることに安心し、歴史的な成果である文明の進歩を誇る一方で当然のものと享受する。
一方でオルテガは貴族を「自らに多くを要求して困難や義務を課す人」とする。歴史に学び、自らの、また社会の規範に従う人だ。
オルテガの定義からすれば、大衆的な上流階級もいれば貴族的な下流階級もいる。貴族と大衆は精神的な区分であり、財産や収入などによるものではない。
オルテガの述べた大衆について、私が前に書いた狭義のエゴイスティックな個人主義に極めて近いことには驚かされる。生まれた時代は違えど、オルテガの90年以上前の指摘は今も健在であると考える。
エゴという個人的な機構からではなく、他者との関係や社会的な態度から大衆を定義してみせた観察眼は並外れているという他ない。
大衆と狭義の個人主義はほぼ同一の概念であると理解しているが、しかし貴族と自己超越主義には多少の相違点があるように思った。
まず自己超越主義を採用する人がもつ超越価値は、オルテガの貴族のような様々な価値(文化・国家・真理など)への忠誠ほど、多岐に渡るものではない。
超越価値は、例えば「地域の固有野菜の種を絶やさない」とか「プロジェクトを成功させる」とかのようなスケールでも十分成立する。
オルテガはまた、貴族的な態度を保持することで文明の崩壊に対する処方箋とした一方で、自己の死を無視し、人生の無意味感を惹起するエゴに対する処方箋とするために私は自己超越主義を構想した。
自己超越主義は個人の態度における警鐘に留まるのか、と問われれば「エゴイスティックな態度は個人の自己責任に帰せる問題ではない」と回答する。
人々は常に他者から影響を受け、他者に影響を与えながら生活している。つまり自身がエゴに満ちた態度なのは、周囲もまたエゴに満ちているからである可能性が高い。
しかも、オルテガの時代から見ても間違いなく、大衆的、狭義の個人主義的態度は広がっている。このまま誰も自らを変容させたいと願わなければ、次の100年は更に大衆の割合が増えることになる。
大衆の反逆が大衆に大受けしたという皮肉を今世紀に再演するほどの、大それた野望を私は抱いていない。一方で、今日の情報社会下での大衆の情報拡散力があれば、自己超越主義(この際オルテガの貴族でも構わない)を伝えていけると考える。だがそれは結局、社会ではなく個人一人ひとりに対する説得や感動の伝播なのだ。
更なる相違点として、オルテガは「文明人は不断の努力により貴族を目指すべし」というメッセージを伝えたいように思うのだが、自己超越主義は個人主義に対して双方向性を確保すべき——大衆にも貴族にもなれる自由があるべき——と考える。
なぜなら、自分よりも大切なものは簡単に見付からないからだ。
個人主義者が超越価値を見付けるにはこれまで、強いショックやきっかけが必要だったと考える。つまり人生観を変えるほどの出会い・発見・喪失などを体験することだ。それらの啓示が無ければ超越価値を持てないという状況を、自己超越主義の定義を文面上で知ることで、啓示が無くても超越価値を選択できる、という考えに変えることができるのではないだろうか。
また、自己超越主義が敢えて貴族を批判するならば、「貴族」という名称そのものが、エゴを喜ばせる「特別感」に満ちたものであることだ。私はこの名称こそが、大衆にオルテガが受けた理由だとも考えている4。