自由に関する試論: システムと至高の存在について
概要
作成, 公開.
この文章を書き始める前、私は独立と依存についての考察をしていた。
なぜ現代社会(アメリカ的家族)は独立を重んじるのか?親からの独立は、親との同居生活よりどの程度自由なのか?お金(ひいては労働)に依存するのは独立の目指す姿なのか?
このメモは次のように締め括った。
この思考は結局、片付かなかった。自由・不自由は生産・行為の概念で、独立・依存は需要の概念に見える。人間は所詮、どこで囚われるかの自由があるだけなのかもしれない。
また別の日は自由の種類について調べた。
消極的自由は干渉がない状態を、積極的自由は自己の希望を実現する能力をそれぞれ指すという。だが「自己の希望」とは何だろう?
行為に対する墻壁が有ろうと無かろうと、また行為する能力が有ろうと無かろうと、それらに先立って意思が必要だ。その意思は何が作るのか?
原始人にサッカーボールを渡したら、原始人はサッカーを始めるだろうか?……おそらくしないだろう。転がして遊びはするかもしれないが、食べようと石器を突き立てて割ってしまうか、どこかに祀るかするかもしれない。
原始人にはおそらく(平均的な現代人より)サッカーをする能力も干渉がない状態も持っていながら、サッカーをしない。
ここから分かったのが、我々は何らかの仕組みについての知識がないと、またその意味を知らないと、そもそも自由を行使しようとも思えないということだ。
この文章では、ここで示した何らかの仕組みを システム と呼ぶことにする。
システムと自由の関係
それでは具体的に、システムとは一体なんだろう?
サッカーで言えば、それはボールであり、コートであり、ゴールであり、ルールであり、そしてプレイヤーである。そして更に、それに関わるあらゆる事柄——サッカーファン、スパイク、専門用語、専門家などなど——つまり文化である。
しかし一度立ち止まってみれば、自由を制限するものもこのシステムに含まれている。システムがその物事の形を決める以上、ある程度は制限的でなければならない。
だがこのような制限がなければ、誰もサッカーをしようとは(原始人と同様に)思うことすらできないのだ。
つまり、自由は制限と表裏一体、同じシステムという名のコインの裏表なのだ。
システムが生み出す5 つのモード
システムは制限と、それについての自由を生み出す。大きく分ければ、そのシステム内で行為をする自由と、しない自由だ。
しかし具体的にシステムをよく観察すれば5 つのモードに分類することができると考えている。便宜的にシステムを円だとして考えると分かりやすい。
- 卓越
- システムの中で努力し、より上手に、より知識を付けようとすること
- 円の中心へ向かう自由
- 諧謔
- システムの中に居ながらも、制限をからかったり、遊んだりすること
- 卓越寄りの諧謔と、反抗寄りの諧謔がある
- 円の外寄りでの自由
- 反抗
- システムの内外から、システムに疑問を呈したり、批判したり、攻撃したりすること
- 円の境界線への自由
- 移民
- システムから同種の別システムへ移動したり、別システムを作ったりすること
- 他の円への自由
- 抛棄
- システムにも、類似のシステムにも関わらなくなること
- 円の外への自由
自由は制限の裏返しということなのだが、システムの定義そのものが生む制限(規制)と、システムのメンバーによる自由の行使が生む制限(圧力)がある。
| 自由 | 規制 | 圧力 | |
|---|---|---|---|
| 1. 卓越 | プロ選手を目指す | 人数の上限 | 他の選手との競争 |
| 2. 諧謔 | 見て楽しむ | マナー | 応援チームへの貢献 |
| 3. 反抗 | 選手のプレーを批判 | 罵らない | 批判の正当さ |
| 4. 移民 | 野球に転向する | 特になし | 裏切りの烙印 |
| 5. 抛棄 | 1-4 をやめる | - | 抛棄させない |
またこれらの全てに対し、これを維持することにコストが発生する。
例えばプロのサッカー選手を目指すと、長時間のトレーニング・実戦経験や金額面でもコストとなる。ファンに忠誠心を求めすぎれば、一部のファンは離れていくかもしれない。
多くの場合、自由に対するコストは制限的にはたらき、制限に対するコストは自由に資する方向にはたらく。
偉大なシステム
サッカーを例に考えると、近隣のシステムは他のスポーツや他の趣味などが考えられる。多くのシステムにはこのように、移動先の候補となり得るシステムがある(モード 4)。
そのようなシステムには当然、システム間を移動する自由やそれを妨げる制限も存在するし、移動できるにしても相応のコストも存在する。
一方で、モード 4 や 5 の自由を行使する制限やコストが大きすぎて、もはや現実的ではないシステムも考えられる。
例えば貨幣経済や地球などがそうだ。
このようなシステムを 偉大なシステム とここでは呼ぶことにする。
偉大なシステムにはいくつかの特徴がある。
- 代替可能なシステムがない、あるいは代替システムへの移行制限・移行コストが大きすぎる
- つまりシステム中に人々を留める力が非常に強い
- システムへの貢献・卓越に人々を強制する
- 有力な代替システムが登場すると、それを取り込もうとすることが多い
明日から物々交換で暮らそうと思えば、社会はそれを妨げようとはしないだろうが、そうすることに多大な時間・労働コストがかかりすぎて、もはや普通に働くほうが合理的と考えられる。
ではシステム内に留まることはいいとしよう。システムに逆らわず適当にやっていこう……と思うことは可能だが、それも難しい。
最低賃金の仕事で良い生活ができるだろうか?皮肉なことに、稼ぎが良い仕事の方が、社会で必要な重労働より待遇が良いことばかりだし、学校教育では良い成績をおさめなければ補習や課外学習を強制される。
つまり「逃げてはならない上に、他人より上手くやらなければならない」のだ。
システム内の全ての人がこれに巻き込まれているということは、全員で競争しなければならないということだ。一人でも多くの参加者を欲しながら、参加者が増えるほど競争は激化していく。
偉大なシステムはまた、代替となり得るシステムを潰しにかかり、恥もなく特徴を取り込み自己を改善する。
数十年前には地球上には共産主義国があった。
資本主義国はこれらの国と対峙し、核兵器を量産してまでも世界的拡大を阻んだ。その上年金制度や皆保険制度などの、いかにも共産主義的な制度を取り込み、福祉を充実させた資本主義を成立させた。
このように偉大なシステムは、拡大し、人々に卓越への圧力をかけ続け、それを正当化し、そうしない者を疎外し、代替システムを悪魔化しつつ吸収する、現時点で最も合理的なシステムなのである。
架橋システム
人類にとって大きな影響があることに間違いはないが、なにも偉大なシステムだけが特筆すべきものではない。ここでは 架橋システム ——同様のシステム同士を繋ぐシステム——を説明する。
多くのシステムが混在する世界では、同種のシステム間でのやり取りに非常に大きなコストが発生する。
例えば日本に標準語がなかったら、全国どこに行っても齟齬なく通用することはないし、必要に応じて両方の地域の方言に馴染んだ人が必要になる。
そこで登場するのが架橋システムである。
これがあれば同種のシステムのどれでも、同じシステムを使用することができる。例えば、楽譜が読めれば別の楽器特有の記法などを学ばなくても、別の楽器がどの音程で演奏されるか分かる。
これによって、いくつかの利点と欠点を受け入れることとなる。
利点:
- 同種の異なるシステムの慣習を逐一学習しなくて良い
- 架橋システムだけ知れば良い
- システム間の移動コストが低下する(つまりより自由になる)
欠点:
- 偉大なシステムのように、架橋システムの習熟・卓越圧力が発生する
- 架橋システムが、同種システムのうちの一つである場合1
- 優勢な架橋システムとする
- 他の同種システム(劣勢なシステム)の勢力を奪う
優勢な架橋システムは偉大なシステムと同じような力がありつつも、現状は偉大なシステムになる程の力や合理性があるわけではないことが多い。
小さなシステム
先に説明したシステムは世界規模のメンバーで構成される巨大なシステムだったが、もちろん小さなシステムもある。
例えば家族のルール・誰かとの約束・個人的な目標は一人以上・十数人程度しかメンバーがいないが、これらも立派なシステムである。
先ほど見てきた大きなシステムとの大きな違いは、5 つのモードの制限が小さい2ということである。
例えば新年に立てた目標を年末までに達成できなくても、自分を罰するものは何もないし、途中で別の目標に変えてもいいし、諦めてもいい。
これは自由であると共に問題でもあることが分かるだろうか。
余りに規制も圧力も弱すぎるため、自身に強い動機がなければシステムにコミットする意欲が湧かないのである。
これこそが、人類にとって最も大きな問題の一つであると私は考えている。
なぜなら、多くの人類が個人主義で生きている3からである。これを説明するためにまず、至高のシステムについて定義したい。
至高のシステムと個人主義
ここまで、システムがもつ自由・制限・コストと、システムの規模とそれぞれの特徴を見てきた。人は皆産まれてから死ぬまで、同時に複数のシステム4に参画したり離脱したりし、それぞれのシステムに優先順位を付けて暮らしている。
それでは人間は、何を基準にしてシステムに優先順位を付けているのだろう?
絶対の基準の一つは、そのシステムにコミットして生存できるか否か、である。資本主義が成立しないなら、誰も貨幣など使わない。
絶対の基準が満たされた時、 残りのシステムで最も重要だとするものを 至高のシステム と呼ぼう。
中世ヨーロッパではキリスト教の神とイエス・キリストこそが至高のシステムだったし、多くの武士にとっては大名が至高のシステムだっただろう。
では現在はどうだろう?自分そのものが至高のシステムだと考える人が増えているのではないだろうか。
個人主義とはつまり「自分自身より大事な存在はない」ということではないか?
ではなぜ個人主義が問題なのかを見ていこう。
個人主義の問題点
その前に、歴史上「個人主義以外」がなぜ問題だったかも確認せねばなるまい。
それは人類が国民国家を発明した頃に遡る。
家族、村、街という規模の集団に対して愛着を持ち、つまりその規模の集団を至高のシステムとしていた。それを国民国家という、更に大きなシステムで囲った。すると国家には途方もない数の国民が含まれ、彼らが同胞意識を持つことにより、国家を至高のシステムとすることができてしまったのである。
つまり人々が自国のために戦うことができる程に、一部の人が国を至高とし、それが国家において大きな価値を持ち、そうでない意識の人は非国民と見做すことができ、更に戦争により自らの価値を下げる口実と圧力を国家に与えたのである。
この結果は皆の知るところである——国粋主義、権威主義的性格、パワハラなど。この反省として、我々は個人の自由と権利を最重要とした個人主義で生きることとなったのである。
しかし当然ながら、我々はこのようなお題目で食べているわけではないし、一度持った信念(増してや至高のシステム)は簡単に捨てることはできないため、人々はすぐに個人主義に転身したわけではなかった。家族など、素朴ながらに根源的な「自分よりも大事なもの」を見出す人も多かっただろう。
しかしテクノロジーの大幅な進歩や、それに伴う娯楽の発達により、現在の私達はもはや、自分より大事なものを探し出すことが難しくなったのである。
その結果何が起こったか。
システムがもつ求心力のの大幅な低下である。
- なぜ子供が不登校になるのか
それは学校が強制力や圧力を有するシステムだからである。 - なぜ適応障害で離職するのか
それは企業が強制力や圧力を有するシステムだからである。 - なぜ子供を持ちたがらないのか
それは家族が強制力や圧力を有するシステムだからである。
これらの問題は、もはや個人の責任に帰することができるものではない。
なぜなら多くのシステムは人類が「自分より大切なもの」を持っていた時代に作られたものなのに、自分より大切なものがない人々が所属してしまっているからだ。
どうすべきなのか
では我々はどうすべきなのだろう?
- 歴史を省みながらも、自分より大切なものを見付ける
- 古いシステムを個人主義に対応させる
個人主義は偉大なシステムになろうとしているのだろうか、それとも「自分より大切なもの」が ある・ないの間を、大きな振り子が往復している最中なのだろうか。
人類の振り子はまだ、完全に個人主義に振り切れたわけではないと思う。
しかし私の本心は、どうしても個人主義は間違っていると感じてならない。
どう考えても、自分以外の何かのためのほうが頑張る力がみなぎるのは気のせいだろうか。
生物としての機能として、自分以外の何かのために力を発揮できたからこそ、人類が今日まで生きてこられたのではないのか。
まだまだこのテーマで考え続ける必要がありそうだ。