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互恵関係の相互搾取性について

概要

[2025-09-27 Sat] 作成, [2025-10-13 Mon] 公開.
[2025-10-16 Thu] 親子関係・情について・二軸による分析を追記.

例えば二国間関係では互恵関係 mutually beneficial relationship という言葉が使われることがある。これは相互に利益があるから、貰った分は返すべきだという意味で使われる。更にシンプルに WIN-WIN と言ってもいい。

このような関係は様々な形で存在する。友人・婚姻・師弟・雇用・商取引などが身近で理解しやすい。

しかしこれらの関係は、互恵という言葉が連想させるほど理想的な状態が続くとは限らない。微妙な(或いは明らかな)力関係の差や、返報する事柄の非均衡から、関係は歪つになったり解消されたりする。

冷静に見ればこれらの関係は互恵関係と呼ぶより、 相互搾取関係 と呼んだ方が、その関係の有り様をより現実的に理解できるのではないかと思い立った。

具体的な関係の搾取性

雇用関係
マルクスが資本論に著したように(読了した訳ではないが……)、資本家(ここでは雇用主と書く)は従業員を搾取している。
もし搾取していなければ、いくら売上を出そうともそこに利潤は生じず、全額が従業員の賃金として分配されているはずだが、現実には利潤が生じ事業は拡大する(粗利益=全従業員の労働力などの経費+利潤)。
一方で従業員も搾取していると言える。例えば就職市場で提示される賃金を比較し、なるべく高い賃金を支払う企業に良質な労働者が集中する。
労働者は権利としてストライキを起こしたり、組合に加入することができるし、望むタイミングで雇用契約を解除してよい。雇用主はこれらを考慮して賃金の配分を決めなければ企業は成り立たない(あくまで便宜上は)。
伝統的夫婦
夫は一家の長として、労働や経営などを通じて賃金を得る。その他の家庭の運営を妻に担わせることで、夫は仕事のことのみを考えて生きれば良くなるのであり、それによって家族に賃金を保証していた。
妻は夫を支えるため、自らの労働力を家庭の運営に投入した。更に夫が傷病などで働けなくなると、労働して賃金を得ることを良しとされた。一見搾取されているだけに見える妻であるが、実際はどれだけ労働に向かない人でも、夫によって当然のごとく養われた。当時の社会は「夫が十全に働けば、その賃金は一家庭分になる」というモデルであったので、このような分業体制が成立し、社会での競争に妻が巻き込まれずに済んだ。逆に言えば、妻は夫を家庭から社会競争に投入した格好である。
教師・生徒
学校は、子供が複雑な社会の構成員となる初めての場所と言える。
少なくともかつては、教師は無謬にして人間的模範となるように振舞い、生徒を一人前にする為なら叱り付ける権限を持ち、必要な知識を伝えるために生徒を教室に縛り付ける立場であった。
生徒は生徒で、普通の人間たる教師に対して良い模範でありつづけることを求め、どれだけ多くの知識を自分が身に付けられるかを教師に示すことで教師から肯定を得ようとする、搾取的な存在だと見ることもできる。
恋人関係
別の特定異性と深い関係になることを相手には禁止し、相手からなるべく多くの愛の証明を得る為に、言葉巧みに搾取する。一方で、相手からの肯定の態度を引き出すために、金品を貢いだり、体の関係を許したりもする。
親子関係
親は自らの遺伝子や思想の後継者を得るという大きなリターンの代わりに、時間・お金・労力のリソースを長期間に渡り子供に投下することになる。これを通じて、親は社会的承認・信頼を得たり、達成感を得たり、子の出世や老後の介護期待のような実利をも狙える立場である。
一方子供は衣食住や教育を長期間無償で受けるという絶大な搾取を行っているが、それは自らの圧倒的に弱い立場——親が重大な決断をし、それに従わないことはできない——があってこそだ。この立場は成長とともに上昇するが、労働を始めるまでは親のリソースを利用せざるを得ない。

相互搾取の性質

ここまで具体例として幾つかの相互搾取関係を見てきたが、一般化すると次のようなことが言えるのではないか。

  • 関係性が深まれば深まるほど:
    • 自分が相手を 搾取することを相手が許してくれる
    • 相手の搾取を自分が 許容できる程度も大きくなる1
  • ある程度の市場原理がある(=同じ関係を別の人とも結ぶ可能性がある)
    • → 互いに(特に立場の弱い側から)関係を終了することができる
    • → 互いに良い関係であろうというインセンティブがはたらく
    • (注)婚姻関係や恋人関係では、法的または倫理的に、同時に他人と同じ関係になれない

相互搾取の崩壊

具体的な関係を読んだ方は、述べられた関係が前時代的すぎると思ったかもしれない。これは意図的であり、 それらの関係が崩壊しつつある(あるいはすでに崩壊した) ことをここで説明するためである。

前時代的な相互搾取関係の崩壊は、それぞれの 相互搾取の失敗 から始まる。
失敗の理由は様々であるが、例として挙げると:

  • 搾取の大きさが関係の深さを表すと勘違いする(因果が逆)
  • 関係構築経験が浅いなどのため、自分と相手の関係の深さを読み誤る(若者に多い)
  • これまでの相手との関係を参考にしすぎて、当の相手がどう思っているかを考慮しない etc.

これらにより、関係の片方が、その相手が許せるよりも多く搾取してしまう2。すると相手はその関係を解消しようとしたり、搾取性を他人に愚痴ったりする。

例えば従業員が許せると考えるラインを超えて、雇用主が搾取してしまう。すると従業員は離職したり、職務をサボったり、しかるべき場所に通報したりする。複数の企業が搾取の度を超えて大きな社会問題となり、雇用主も従業員も「過度な搾取は止めよう/搾取を許さないようにしよう」という心理状況が共有される。

このような態度は、それまで搾取を許さなかった人々はもちろんのこと、それまで互いに搾取を許し合っていた関係にも影響する。
例えば残業代をはずんでいた企業と、限界まで残業して稼いでいた従業員にも、残業がよくないという状況が共有されるとする。するとどちらか(主に社会的に責任がある側) が疑心暗鬼となり、これまで問題なく築いていた深い労使関係を「改善」する社会の流れに沿うように、例えば残業可能時間を短くしたりする。

この状況が繰り返し社会に共有されると、しばらくの時ののち、全体的に両者の搾取をより許さない社会になる。
確かに両者から搾取される可能性が減ることは悪いことではない。しかし両者が合意していた相互搾取すら社会的総意によって解除されることは、 相互搾取の性質で述べたことが確かであれば、 両者の関係が希薄になった と考えることができる。

また、人間関係のベースである親子関係も大きく変化した。
家庭での不整合感は、学級崩壊やいじめのように家庭の外に現れた。ちょうど従業員がブラック企業の外のマスコミ等に現状を訴えたのと同様である。
その頃の子供が大人になると、毒親やヘリコプターペアレントなど、親の過剰な搾取に対しての異議申し立てが SNS 上などで活溌に共有され、しかも批判よりも共感を得た結果、子は親を選べないということを親ガチャという言葉で揶揄するまでになった。
今後親の立場になった元・子供は、次の世代の子供に対してより対話的で、言葉による合意形成を重視することになることが予想されるが、特に子が幼いうちは対等に対話をすることは難しい(できない)ため、いかに解決するかが注目される。

しかし当然、同じ時代にも当たりの親ガチャもあることは明確であることから、上で述べた企業と労働者のように関係性の希薄化と断じることは難しい。親子関係はかなりプライベートな領域であり、家族の方針は親が子供時代に受けた子育てに多大な影響を受けるため、単に変化の速度が遅いことが考えられる。

いづれにせよ、期待や忖度をベースにした相互搾取は過剰搾取への異議申し立てによって徐々に解体されているのが戦後から現代までの基本的な潮流である。


ここまでは戦後における相互搾取の程度の変遷を書いたが、それ以前はどうだろうか。

  • 工学技術が現在ほど発達していない → 個人の才覚に依存した道具
  • 食糧生産の効率が低い → 他者(近所の人)との協力が不可欠
  • 情報の拡散は人の足頼り → 他者との友好的な関係が必要
  • 日本全体の法より地域的なルールが支配的 → 移動の不自由・忖度や自制心が重要

これらの条件から考えると、生存の為には他者と友好的な関係を維持しなければならずそのコストも大きかったことから、戦後よりも相互搾取的だったことが予想される。
その一方で集団内での派閥形成や身の振り方についての用心が必要で、「腹の中」を容易に見せることへの忌避感も同時にあったはずだ。これは互いに一定の距離を置くことから相互搾取的ではない、と見ることもできる。

誰に対してどの程度相互搾取的かを考察するならば:

  • 近所の人などの顔見知り
    • モノ(食糧・道具・労働力・情報・「女性3」)などについては積極的に贈り合っていた(=強い相互搾取)
    • 心(好意・悪意を問わず)を開示し合うことは危険とみなされていた(=弱い相互搾取)
    • 互いに関与が少ないので、ある程度には自由だった
      • ただし近所で噂になるようなことは避けるべき
  • 身内(郎党や家族として契った相手)
    • モノに加え、心も開示できる程度に許し合う基盤があった
    • ただし身内の長の決定により自由な行動ができない場合がある
    • 身内の内部にも序列がある可能性
  ウチ ソト
モノ 共有の財産 貸し借りが無くなるよう努める
開示し合える、許し合う 極めて表面的
自由 長の方針に従う ある程度関与しない

ここでのウチは、国(藩)や国家(日本)として何重にも階層的に存在しているように考えられる。

例: (((((家族) 親戚) 村や町) 藩) 国家)

原初の頃は小さなウチだけだったが、次第に大きなウチが力を持つという流れがあったと考えられる。時代を遡るほどに身内による相互搾取が大きく、上位階層である村〜国家とのやり取りは小さい。
次第に親戚一同や村落が運命共同体として出現し、外の村とは敵対したり、村の中でモノを贈りあった。更に藩の規模で戦争が起こるようになると、村同士で結束・融通した一方で、家族や親戚との相互搾取関係は小さくなっていったのではないか。

国家間戦争によって国家の力が強大化したが、その後は国家強制力の制限により職業と家に搾取性が戻り、そして最初の議論のとおり戦後の話に繋がるわけだ。
今や移動の自由化によって、これらのウチとソトの区別は地理的なものが決定するものではなく、職種や興味関心などが決定するようになった。その上、欧米的な関係性の価値観が流入したことなどの理由で、日本人はウチとソトという構造にうんざりしているのではないか。

まとめると、長らく日本ではウチ・ソトに対して相互搾取しており、

  • 原初: 小さなウチから徐々に大きなウチへ
  • 戦前-戦後: ウチとしての国家→基本的なウチは家族と職場
  • 戦後-現在: 「ウチとソト」の弱体化、関係性単位の相互搾取形態へ、そして関係性も弱体化

被搾取の喜び

相手に搾取されることに対して、今日は昔よりも敏感かつ警戒感をもって見られることは前節で述べた通りである。
一方で、その流れに逆行するように「搾取されたい」という心理も浮かび上がる。

その 1: 過少な自己肯定感

  • 役に立たなければ、自分の存在価値はない
  • 自分は他者よりも劣っているから、人よりも貢献しなければならない

このような心理状況(愛着パターンなど異なる呼称もあるだろう)によって、相手に対して自己利益を過剰に犠牲にしてまで相手に貢献しようとしてしまう。
搾取されることによって自己肯定感が高まるような気がする点が厄介である。

このような人々は、得てして搾取的な人に嗅ぎつけられ、とことん搾取されてしまう。
あなたがこのように自己肯定感が低い人なら、このことに気を付けるべきだろう。

その 2: 返報への過度な期待
「返報性の原理」に従い、相手に貸しを作ることで相手から同じだけ(あるいはそれ以上の)見返りを欲しがる場合である。
もし自分の貢献度合いに見合う返報がなければ、自らを被害者とみなして攻撃的になってしまう場合もある。ある意味ではこのような善意の押し売りもまた搾取の一形態である。

その 1 で挙げた自己肯定感の低さとこの返報への期待は一見して見分けることは困難である。あるいは、相手に貢献することで「相手に側に居てほしい」などという一種の見返りを求めていると捉えてもいいかもしれない。
自己肯定感が低いからその程度の見返りで収まっているが、肯定されるにつれて返報をより欲しがるようになる場合もあるから注意が必要である。

その 3: 自己の幸せを他者利益に求める
他人(特定の人あるいは広く世間の人々)の幸せこそが自分の幸せという人である。
これは前の二者と比べて成熟した態度に見えるが、実際にそうかは分からない。

例えば老夫婦の営むレストランは赤字覚悟の値付けで、地域で評判の良い店だとする。
この老夫婦は完全に他者の幸せのためだけにそうしているのだろうか?可能性として、より有名になるためや「人々の記憶に遺りたい」という欲がないだろうか?

特に死を意識する年齢になると、人は「この世に何を遺せたか」という問いに直面するという。あの世には現世の利益を持って行くことはできない。誰しもが今を生きる人にポジティブな記憶を遺したい。
「皆の幸せが自分の幸せである」と表明することは、現世での利益を名声に変換するという点において有効であるかもしれない。

とはいえまだ死を深く意識しない側の人々にとって、あえてこれを揶揄することに徳はない。有難くこの策略に乗り、感謝すればよいのだ。


あえて搾取される戦略を 3 つ紹介したが、他の戦略もあるかもしれないし、どれも「その 2」の亜種と呼ぶべき戦略であるかもしれない。
いづれにせよ、相互搾取の程度は小さくなる方向に時代は進んでいるようなので、このような被搾取戦略も敬遠されていくと思われる。

相互搾取の価値

流行語に見る搾取の価値

相互搾取の崩壊で述べたように、少なくとも日本において、様々な相互搾取の程度は徐々に小さくなる方向に進んでいると考えられる。言い換えれば、我々は 「相互搾取を評価しない」ようになってきている

おそらく昔は相互搾取を許容したのだろう。時代を彩った言葉にも、相互搾取の名残りを見てとれる。

  • モーレツ社員、「24 時間働けますか」 …… 労働者の被搾取の美徳
  • 亭主関白、良妻賢母、「亭主元気で留守がいい」 …… 夫婦関係の相互搾取の美徳

教師と生徒にも師弟同行との言葉がある。恋愛関係にも「○○命」といった深い相互搾取の言葉がある一方、純愛・一途・「プラトニックな関係」といったような不貞を許さない力はありつつも浅いままの搾取性を賞賛する言葉があることは興味深い。
体の関係になった途端、男性や力で優位な側が、その力による一方的な搾取を始める可能性を戒めるために、相互搾取性が小さいことを評価しているのかもしれない。

上記の通り恋愛という例外はあるものの、昔は関係性の深さが互いの搾取を許しあう条件であり、そこに大きな価値があったのだろう。

情による搾取の隠匿

また相互搾取の価値として見逃がせないのが「情」である。
ここまで敢えて深く触れずに分析してきたのは、情がひとえに「互恵関係から本性である相互搾取を隠すベール」として機能していると考えるからだ。あるいは内部変数として情を捉えるなら、搾取と被搾取の差引きの移動平均4に過ぎず、情がある閾値を下回るか否かによって相手との関係の維持・解消を決定するバロメータになっていると見ることができる。
情に深い行為が社会的・本能的な善として承認されるからこそ、人々は多少の過剰搾取を許容し、許し合う相互搾取を関係の深化と誤認するのである。

戦後の価値観として相互搾取が美徳とされたことも、情を全面に打ち出した5 からこそ、皆が入れ込んでいる関係性が相互搾取的であるということに対して鈍感でいることができたとも説明することができる。

思い直せば、情を過剰評価する人や社会は、得てして搾取的であることに気付く。
「アットホームな職場です」と記載している求人票は、近年では明らかな地雷として捉えられている。愛のある指導を標榜するスポーツの名門コーチがハラスメントで解任されるニュースを何度見ただろうか。
これらは決して偶然などではなく、情が彼らの搾取的な姿勢を隠蔽するために使われるからだ。更に踏み込んだ言い方をすれば、搾取的な人々は自らの搾取性を隠すには情に訴えるのががうってつけであることを (理解してなり、経験してなり)よく分かった上でやっている。

現在の価値観

昭和は搾取を許し合う美徳があったが、翻って現在はどうだろうか。

  • 共働き夫婦の増加、賃金に対する生活費の増加、家事の電気化
    • → 分業から共同運営へ・熟年離婚による搾取の解消
  • 残業の減少、無理な命令の減少、社内権力の減少
    • → トップダウンからボトムアップへ、命令から多数決へ
  • 体罰の禁止、学級崩壊、いじめへのスポットライト
    • → 教師と生徒から共に学ぶ存在へ、講義から個別課題へ、受動から主体へ
  • オープンな身体関係を経て友達化、性の稀少化
    • 相互束縛からゆるい繋がりに、精神的結び付きは友達が担うように

総じて見れば、強い相互搾取は鳴りを潜め、 より強い自己責任化 や、多数との ゆるやかな協力 へと取って代わわれているように思える。
日本人は特に不安を感じやすいとされている。昔は赤の他人より知人に大きな信頼を置いていたため強い相互搾取で深い関係性を築いていた一方、 相互搾取の崩壊で述べたように深い関係性のある相手からの過剰な搾取が問題視され続けた結果、 広く浅く・容易に解除可能な、相互搾取が少ない人間関係 を重視したほうが安全であるという認識になったのかもしれない。

現在の強い相互搾取

また昔から現在を通して強い相互搾取を維持しているものがある。いわゆる推し活がその一つである(昔はアイドルファンなど別の名称だっただろう)。

傍から推し活を見ると、推す側(ファン)が推される側(アイドル)に一方的に金銭・時間・興味などを搾取されているように見える。しかし一方で、アイドルはファンを承認しまとめ上げるために、身体面や精神面で多大な苦労をすることになるのにもかかわらず、それをファンや世間に見せることを許されない。

互いに近しい関係性になることは殆どないのにも関らず、それを連想させるようにアイドルは偽り、ファンはそれを知りつつもその幻想を楽しむのである。
これを美しい関係と見るか、理解できないと切り捨てるかは各人次第であるが、幻のような相互搾取(アイドル・推し活)が、自身に近い相互搾取が小さくなる中で、その相互搾取の大きさを保っていることは刮目に値すると考えている。

搾取と被搾取の許可との二軸による分析

これまで見てきた通り、我々の関係は単純なギブとテイクでとは言い切れない、「相互の搾取」と「相互の搾取の許容」とのバランスによって成立していることを理解できると思う。

この二つの要素の程度をそれぞれ軸とすれば、平面上に諸関係を配置して分析することができるはずだ。

  相手の搾取を許さない 相手の搾取を許す
相手を搾取しない (A)ドライ・無関心型 (B)貢献・献身型
相手を搾取する (C)強権・貪欲型 (D)愛着・依存型

自分から相手の搾取の大小を縦に、相手から自分の搾取を許容する程度の大小を横に表現した。
分かりやすく典型的な呼称を付けたが、必ずしもその呼称がその関係の実態を的確に表現するわけではない6

典型的な友人関係などは(A)から始まり、(B)にも(C)にも寄り過ぎないように徐々に(D)へ向かう。おそらく日本人の典型としては(B)寄りを経由することが多いと予想する。

相手が(C)の傾向を強めてくると、自分は(D)へ向かうのをどこかで止め、(A)に逆戻りする(自然消滅ルート)。相手の(C)が余りに酷い場合、自分も(C)へと近づき対決・決裂へと進むだろう。

このように見ていくと、上記の表は自分から相手への目線をのみ説明している点が浮き彫りとなる。つまり上記4つのペアを分析する必要があるのだ。

脚注:

1

後ほど述べるが、搾取すればするほど関係が深いと言えるわけではないし、相手の搾取を許せば許すほど関係が深いというわけでもない。
因果の逆転には注意したい。

2

注意したいのは、搾取の程度は互いに均衡しなくてもいいということである。
もちろん恋人関係や商取引関係などでは片方が不公平感を抱きやすいが、教師と生徒などは「なにを以て搾取が均衡しているか」を考えにくい。
そのため「相手が許せるより多く搾取する」ことに気を付けるべきである。

3

私自身が現在の女性を物質的に見ているわけではなく、歴史的に家族の所有物として他の家との関係構築などの為に贈り合っていたということを考慮してこのように記述しているものである。

4

それに加え、初対面時に抱いた情と現在抱いている情の高低差も影響があるだろう。

5

あるいは物質的に豊かではなかった時代だからこそ、豊かな情ならば無償で育めるという合理化がはたらいたのかもしれない。

6

たとえばASDの夫・カサンドラ症候群の妻を考えるとき、妻が夫に貢献する割合が大きくなる(B)が故に、夫は自動的に(C)強権・貪欲型/(A)ドライ・無関心型に位置することになる。だからと言って夫は強権を振っているわけでも貪欲なわけでもない。

Created: 2025-10-16 Thu 23:38