道具と使用者の関係について
概要
作成, 公開.
ハイデガーは存在論を分析したことで知られる哲学者だが、その論考の中で 道具 Zeug という言葉を用いて、現存在たる人間と、世界との繋がりを考察している。
ハイデガーが言うには、道具は 手元性 Zuhandenheit と 眼前性 Vorhandenheit を有している – 手元性はその道具が目的を果たすために使用されている状態であり、眼前性はその道具と目的が切り離されてただ目の前にある「もの」として捉えられる状態である。
ハイデガーはハンマーを例としてこれを説明する。
ハンマーを手に取り釘を打つ様を見ると、ハンマーは釘を打ち木材を組み合わせるという役割を持っていて、これを行う大工はハンマーの先にある釘と木材に注目している。これが手元性である。
しかしある拍子にハンマーの柄が折れたり、頭が柄から取れたりしてハンマーが壊れると、それまで注目されなかったハンマー自体に目をやる。その時のハンマーは眼前性として理解され、ただの木片と金属塊としてみなされる。
ハイデガーはその後、人間と世界との関係を論じていくのだが、ここでは道具の手元性という性質に注目し、道具と使用者との関係を考察してみる。
矢印による使用者 – 道具のチェーン
ハイデガーの哲学から一旦離れ、まずは以後使用する道具という言葉を定義したい。
- 道具
- 使用者により、ある目的を達成する為に使われる物や概念のこと。
- 複数の道具を組み合わせることで役割を果たすこともある
- ここでは、材料も広義の道具であると定義する
つまり、机を作るという 目的 に対して、木材・釘・ノコギリ・ハンマーを全て 道具 とし、製作者を 使用者 であると決めたわけだ。
これを矢印を使い 使用者→道具→(目的) という形式で説明できると考える。
複数の道具があるときはどのように書くべきだろうか?
- 使用者はノコギリを操作して木材を変形する
- 使用者 → ノコギリ → 木材 → (机のパーツを作る)
- 使用者はハンマーを操作して、仮に固定した釘を机のパーツに叩き込み、パーツ同士を接合する
- 使用者 → ハンマー → 釘 → パーツ → (パーツを組み合わせて机にする)
- これらを一度に書くと、
使用者 → ハンマー → 釘 → [使用者 → ノコギリ → 木材 → パーツ] → (机を作る)
……となる
道具の多義性
道具はなにも一つの目的に対して存在するわけではない。
例えばコップは、確かに少量の液体を保持するために人間によって作られた道具ではあるが、ペン立てとして使用したり、伏せて虫を閉じ込めたりすることもできる。
人間に特定の目的の為に作られた道具について、その道具を 用具 artifact 、その目的を 主目的 と呼ぶことにする。
- ハンマーは釘を打つことが主目的である
- ノコギリは木材などを切ることが主目的である
- コップは少量の液体を零さず保持することが主目的である etc.
それに対して、主目的以外の目的で道具を使うとき、使用者は道具の目的を創出したといえる1。
一方で、木材のように主目的を持たない道具もある。
- 自然物(石、金属、木材、etc.)
- 材料(塩、紙、糸、etc.)
このような主目的のない道具は、常に使用者が目的を創出することになる。
多くの生物は、生きる為に環境を道具として用いていると考えることができる。水中の生物は水を使用しているし、蟻は住処の為に土を使用している。これを 生存手段的道具 biological tool と呼ぼう。
これらのうち、殆どはその生態と道具が強く結び付いている一方で、一部の高等生物は人間のように道具から目的を創出する。
サルが木の枝で蟻の巣を突いて蟻を食べたり、イルカはフグの毒を麻薬として使ったりすることが報告されている。これを 原用具 proto-tool とする。
原用具が伝搬する様を ミーム meme と呼ぶことができるだろう。つまり生態的・遺伝的によらない道具の使用のうち、仲間の内でその使用方法が伝搬することを言う。
人間の営みも、多くがミームであると説明できる。言葉、文字、文化、流行などだ。そのうちミームを円滑に実行することを目的に持つものこそが、先に説明した用具だと言える。
人間の用具がミームとして使用される道具と大きく異なる点として、用具は専ら別の原用具や用具によって制作されていることだろう。
道具を作るための道具を作る生物は、人間しかないのではないか。
まとめると、
- 生命は自然物を道具として使用して生存する(生存手段的道具)
- → 一部の高等生物は生存以外の目的で道具を使用する(自然物から目的の創出→原用具)
- → 原用具の使用方法が種族間で共有される(ミーム)
- → ミームを円滑に実行する為の道具が制作される(用具)
生存手段的道具 | 原用具 | 用具 | |
---|---|---|---|
生物 | 棲むための土(モグラ) | - | 棲むための壺(タコ) |
知的動物 | 棲むための森(サル) | 蟻を釣るための枝(サル) | |
人間 | 泳ぐための水 | 黒曜石を割るための石 | 効率良く料理するための炭 |
道具の身体化と対象化
さて、人間が道具(生存手段的道具・原用具・用具)を使うことにおいて、上手・下手という区別ができる。道具を使い慣れている状態を 熟練 とよび、そうでない状態を 未熟 とよぶ。
ある人がある道具について熟練しているとき、人と道具の関係はおおよそ 2 通りのいづれかになる。
- 使用者と道具の境界が溶け合い、体の一部のように感じる状態 … 道具の身体化
- 例 剣術の師範と剣、プロゲーマーとコントローラー、鍵開け師とピック
- 比較的単純な道具で、道具の先にある対象を意識する
- 体験を通した対象の理解、瞬間的・自動的な反応
- 未熟な場合、道具自体に目が向かい、微妙な加減を調節することが難しい
- 熟練するにつれて、道具の先の対象に注目し、毎回同じ加減で動かせるようになる
- 体験を通して理解されるとはいえ、説明をつけることもできるが、万人に共通しないことがある
- 道具について意図的になり、対象として知悉した状態 … 道具の対象化
- 例 テックサポートとパソコン、調律師とピアノ、旅行者と地図
- 比較的複雑な道具、道具自体が対象である
- 言語化された原理、対話的・フィードバック的
- 未熟な場合、何をどのようにすればいいかわからない
- 熟練するにつれて、間違うことなく最小限のステップで済ませられるようになる
身体の道具化
ここまでは自分の体は自分で、道具はその外側のものとして考察した。
一方、体そのものについても未熟や熟練を定義できることから、体についても道具と同様の議論が行えるのではないか。
- 武術やスポーツは身体という道具の身体化である
- 敵や相手、ボールを意識する
- 修練により、外界の環境の変化に対して無意識に体が動く状態に近づいていく
- ヨガやボディビルは身体という道具の対象化である
- 身体自体を意識する
自己の道具化と道具化できない部分
思考と感情の道具化
矢印による記法で、 使用者→道具→(目的)
のように道具(目的)と使用者の関係を表すと決めた。これを身体も含めると、例えば
使用者 → 腕 → ハンマー → 釘 → [使用者 → ノコギリ → 木材 → パーツ] → (机を作る)
と腕も道具として表せる。腕の使用者はその人の思考であり、思考もまたその人の道具であり……と考えていくとどうなるだろうか。
使用者 → 意識 → 思考 → 腕 → ハンマー → 釘 → …
一瞬だけ前の意識が、眼をハンマーと釘に向けさせ、思考は腕を振る角度や力を調節する。
思考が道具であるなら、一方では感情もまた道具であるはずだ。
感情は外界からの影響を受けて惹起され、表情や汗などの生理的現象として立ち現れる。
使用者 → 本能 → 恐怖の感情 → 心拍数の増加 → (敵から逃げる)
こちらも一瞬前の知覚を元に本能が感情を刺激し、即座に生存のために適切な行動を促す。
人が現状を知覚してから道具を使って外界にはたらきかけるこれらの様子を、仏教では「五蘊」という言葉で詳細に論じている。
種の存続の道具・社会的道具としての自己
ハンマーを振う最中は確かに五蘊で説明できるのだが、そもそも何故机を作ることになったのか?
他人からの命令であれば使用者を使用するのは命令者となるし、生存のために机が必要と考えさしめた本能があるかもしれないし、社会的にそれが自分の役割だと了解しているかもしれない。
より根源的な使用者を探すほどに、より大きな目的が立ち現れる:
命令者 → 使用者 → 意識 → … → (机を作る) → (命令者が販売する) … → (生存する) 使用者 → 本能 → 意識 → … → (机を作る) → (机の上でより良い道具を作る) → … → (生存する) 社会 → 役割 → 使用者 → 意識 → … → (机を作る) → (認められる) … → (生存する)
このように遡っていくと、もはや道具の使用者本人の目的を離れ、社会や本能が使用者の生存に繋がるように取り計らっているように見える。世界のあらゆる場面で、社会が人の目的を決定しているのであれば、社会が人を生かしている。
社会、つまり総体としての人類が、使用者をして机を作らしめているのだ。
社会や本能を通じて、我々はなにかをしているのである。
手段の目的化
机を作ることの背後に人類がいる考えとは別に、彼の純粋な欲でもって机を作る場合だけは、彼が人類・遺伝子の傀儡であることから離れられると考えられないか。
つまり机を作ることが彼にとっての目的であり、 手段の目的化 である場合だ。
純粋に彼が机を作ることが好きで楽しんでいる場合、自分が喜ぶために机を作っているわけで、その先には社会や生存、他者からの命令は見えてこない。
??? → 使用者 → 意識 → … → (机を作る) → (嬉しい・楽しい)
この場合、使用者の背後にあるのは何だろうか——魂、神、前世の因果、高次元の自己(ハイヤーセルフ)、……。様々な呼び方があるのだろうが、この領域について我々の知覚と感覚では断言することはできないと考えている。
以降、手段の目的化は使用者の内発的な目的であるということで話を進めていく。
その人が「好きなこと」は、生まれた国や時代に大きく影響を受けるだけでなく、育った環境や関係する人の影響も無視できない。つまり好みとは生まれついた時に決定されるようなものではない。
社会からの影響を受けながらも、「好きなこと」は必ずしも社会の役に立つわけでも、種としての人間の反映に必ずしも寄与するわけでもないのは興味深い。
生存・生殖・社会適合などに「好きなこと」は何の影響も受けないため、人によっては早死にしたり子孫を諦めたり法を犯したりするが、それは彼らが「好きなこと」を止める理由にはならないのだ2。
ただ自分を「手段の目的化」へと駆り立てる何かが実際にあるとして、なぜそのようなものが存在するのだろうか?生存や種の存続にとって不利になることが多くなるのではないか?
何が・なぜ手段の目的化を起こすのかは分からないが、人が手段を目的化するには 自由 が必要であり、手段を目的化する人の多くは自由を希求しているように思える。
この世には目的化するほどに好きなことを、見つけた人とまだ見つけていない人がいる。好きなことを見つけた人は専らそれを続けたくなるため自由を求める。
好きなことを見つけていない人は内発的な目的がない3ため、社会的・人類的な目的の道具となり続けるか、他者から搾取することを厭わない人や強い権威に良いように使われることに終始するほかない。
気をつけたいのが、好きなことがある人でさえ自由を当然の権利と思っていることがある点である。つまり他者の好きなことをする自由が奪われそうな時に、それがいつかは自らの自由を奪うことになると考えられるほど俯瞰して見えていないことがあるわけだ。
この、自由が許されるか許されないかの戦場によくなるのが表現の自由である。
社会や人類の繁栄を理由にして、不都合となるような表現を好む人々は何度も自由を脅かされてきた。
彼らの自由をどこまで尊重できるかが、手段を目的化する類稀なる生物として重要な命題であると私は考える。
道具の使用の失敗と悪用
使用者が道具で目的を果たせなかった時、このことを 道具の使用の失敗 misuse と呼ぼう。
道具の限界に関する無知・過信・無視や、未熟からくる物理と思考のずれから生じる。
ある研究では、人が他者に嫌われないように当たり障りのない態度をとっていると逆に嫌われる傾向にあることが分かっている。
(想定) 社会適合 → 人 → 感情 → 思考 → 当たり障りのない態度 → (他者に嫌われない) ↓ (実際) 社会適合 → 人 → 感情 → 思考 → 当たり障りのない態度 → 他者に嫌われる
これは嫌われたくないという感情が、「自分が当たり障りのない態度の人を見てどう思うか」という思考を上手く扱えなかったため、嫌われないという目的が果たせなかった。つまり感情の使用の失敗といえる。
道具によって使用者が傷ついたり、目的から遠ざかったりすることを 道具の悪用 abuse と呼ぼう。
目的・道具や対象の無理解や、使用者の意図的な悪意から生じる。
兵器は敵から自分や護衛対象を守るために作られた道具だが、しばしば国民などを力によって支配するために使用される。ここでは使用者が権力の乱用によって銃を悪用している。
使用者 → 銃 → 人 → (支配)
脚注:
もちろん、使用者が発明した使い方である場合もあれば、どこかで誰かが既に試した使い方かもしれない。どうであれ、ここでは目的の創出と呼ぶ。
ただし、その人が自分の興味や関心よりも社会的・種族的反映を重視する人であれば、それを好きであるという思いを押し殺して生きることになる。好きなことが許されないことであれば尚更である。
また社会的に認められるような事を好きになる傾向は確かにあるかもしれないが、それは社会が認めない事を好きになる傾向が存在しない理由にはならない。
もちろん本能的な目的が発生するのだが、先に見た通り本能は人類種としての目的であるため、当人から発生した目的とは(ここでは)考えない。