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創作物の受け取り方と
フィルタリングについて

引用

[2018-10-06 Sat].

「フェミニズムやポリコレについて本来の価値を考えよう」というお話
https://togetter.com/li/1273697

幾つかの発言を引用する:

  • 「ポリティカルコレクト的批評というものがあるとして、重要なのは「自分の好きなコンテンツの中にある差別的な要素に気がつく」ということであって、「嫌いなコンテンツ、嫌いな相手の作品の中から非ポリコレ要素を探し出していびり上げる」ことじゃないんです」 
  • ポリコレ批評と呼ばれるものの多くはマイクロアグレッション的なもので「聞き手がいつも女子、ステレオタイプ」なんてまさにそれ。
  • 「SNS は問題提起能力は優れていますが、問題解決能力としては最低の多数決魔女裁判装置でしかない」
  • 「いつの時代も少数の感性をもった個人はいる。エヴァに傷ついた子どもやセーラームーンに傷ついた子どもだっていたはずなんです。そういう個人に寄り添う思想、マイノリティの庇護としてのフェミニズムの価値は僕は一度も疑ったことはない」

概要

[2018-10-06 Sat].
上の議論を読んで、創作者がいかにして批判に相対すればいいのか、については未だ答えは見いだせない。しかし考えたことが何らかの考察の役に立つかもしれないので書き残そうと思う。

[2018-12-15 Sat].
……とは言っていたが、フィルタリングの話になってきたので、最初からそういう話だったことにして公開しようと思う。

創作物とそれに対する人の反応

[2018-10-06 Sat].
まず仮定として創作者は自らの伝えたいメッセージをのせて(あるいはそんなものはなくても)、自由にコンテンツを創作する。それが多くの受け手に届いた場合を考える。当然規模は様々である。

そのとき、創作物の受け手は様々な反応を示す:

退屈
例えばその創作物に類似した作品を沢山見ていたり、また例えばその作品を幼稚に感じたりしたため、その受け手には刺戟が少なすぎて創作物を楽しめない場合。
関心
その作品から受ける刺戟の量が適切であるため、その創作物を楽しめる場合。
過激
その作品があまりに受け手を傷つける要素を含んでいたため、そのコンテンツを楽しめない場合。

これらの反応はすべて程度問題である。つまりはっきりと上の 3 つに分けることはできず、例えば「過激な作品だったが自分は傷つかなかった」とか「知っている内容だったが楽しめた」など、2 つの境界のあたりの反応もありえるということだ。
さらに他に例えて言うなら、これらの反応を「刺戟レベル」として 0 から 100 までの直線上に表すとき、ある人は 30 〜 70 程度の刺戟をあたえる創作物に関心をもつ、というように評価できるかもしれない。

また、これらの反応は極めて個人的な問題であるということだ。例えば A というジャンルに対してはほぼ同じような興味を示す 2 人でも、B という分野については全く異なる意見を持つかもしれない。

これらを踏まえれば、創作物の受け手が何を求めているかがはっきりしてくると思う。

広告について

[2020-10-09 Fri].
作品を受け手に届けるために重要になるのが広告と媒体である。
従来は映画館のポスターやコミックスの紹介欄など、その創作物が存在するところに広告が存在した。それは創作物の媒体イコール広告の媒体であり、その類の媒体自体に興味がなければ作品にも出会わない。
それとは平行してチラシによる広告やテレビCMなども存在し、その場合の作品と広告には十分な距離があった。つまり、従来は広告を見ても/聞いても創作物を見ないか、そもそも興味のない広告があるところには行かないか、という方法で、苦手かもしれない創作物を見なくてすむ構造になっていたのだ。

一方でweb上の広告は、しばしば創作物と広告の距離がきわめて近くなったものが登場しはじめた。ブログに載せて広告収入を得るタイプは古いタイプの広告だ。考えたいのは、twitter や facebook といった媒体で共有されるマンガや動画などである。これらは作品についての短い紹介文とともに共有され、その人気度をいいねやリツイート数でうかがい知ることができる。そのうち人気を不動のものにした作品が、このときようやく商品化する例も多い。

さて、このように広告がきわめて作品そのものに近づいている、言ってみれば作品が広告化した現在、創作物自体を見るより前に「自分が楽しめる作品かどうか」を判断するということが難しくなっている。まるでスギの花粉のように、とにかく多くの人に露出することで創作物の受け手の母数を増やすことが、作品数が飽和した現代における創作者のとれるコストパフォーマンスのよい弘報手段なのである。

両者の希望とミスマッチ

[2018-10-06 Sat].
ここまで、創作者は自分の作品がより多くの受け手に届くことを(そしてそれが好意的に受け取られることを)望むこと。対して受け手は、自分が関心を持つ創作物を楽しみ、自分が退屈または過激と感じるような創作物を避けたいと望むことを、それぞれ見てきた。

こんにちのような、インターネットが普及した空間では、以前よりも多くの創作者が不特定多数に対して自らの創作物を届けられるようになった。もちろん作品を公開する創作者の絶対数(パイ)も増えたため、多くの目に触れない作品も増えたという側面もある。とはいえ作品の絶対数が増えたことには変わりはない。
言いたいことは、創作者の望みは(作品の完成度と宣伝、それに運の有無により)部分的に叶うようになった、ということだ。

一方で受け手はどうだろうか。
氾濫する情報のなかから、その時の流行や誰かのおすすめなどなどを頼りに、自らが興味を持つ創作物を彼らは見つけ出したい。しかもその中にも、退屈なものや過激なものがどうしても混ざってしまい、意図しない創作物を受け取ってしまうことがままあるだろう。特に過激な創作物に傷ついたりした場合、彼らは創作物や創作者に対し否定的な感情を抱くだろうし、否定的な情報を発信することもあるだろう。

ここで悪いのは「過激さを含む作品を広く公表した創作者」だろうか、それとも「その作品のターゲット層ではないにもかかわらず受け取ってしまった受け手」だろうか。 個人的にはどちらにも非はないと考えている。
ここで「いやそれは違うだろう」と考えた方もいるだろう。
明らかに不適切なコンテンツであるなら、作者こそが発表する場を選ぶ、自主規制が必要があると。

インターネット上における自主規制の未来(あるいはポリコレ批判)

[2018-12-14 Fri].
確かに、作者による自粛には一理あるし、現状それが最も手っとり早く問題を解決するように思える。私もつい最近までそう考えていた。
しかしこれをこのまま実践してしまうと、創作者の将来は闇澹たるものになるだろう。

ここで、作者の自主規制を厳格に適用した想定で、なにが起こるか考えてみたい。


まず大手 SNS で議論が沸き起こり、「この SNS でポリコレの基準を遵守できない創作者は批判を逃れられない」という前提が幅広く受け入れられたとしよう。 NSFW タグを付け忘れた作者や、ポリコレに牴触する創作を専門にしていた人びとは、しだいに肩身の狭さを感じたり、好意的な反応が減ったことに落胆するかもしれないし、気にしないかもしれない。この時点では実はまだあまり深刻ではない。
問題はその次に来る、「現代版の踏絵」だ。

それはおそらく政治家や教師のような、批判に晒されやすい人から始まる。「あの人はポリコレに反する xxx が趣味なのか!それは支持できない」「あの先生 xxx が好きだなんて、そんなの教師に相応しくないだろ」—どうだろうか、このような言説を見たり言ったりした人は多いと思う。
それはいつしか世間の常識になる。より広い職業でポリコレは気にされるようになる。犯罪を犯した理由づけにポリコレが用いられる (人格をバッシングする様子から「ポリコレ棒」と言われることもあるらしい)。

そしてポリコレに反する創作はいつしかリスクになる。ポリコレに反する趣味もまたリスクになる。ポリコレに反しながらも需要があるジャンルは、それ専用の WEB サイトが作られるなどしてゾーニングが達成される。だが需要も供給もないコンテンツは資本主義からすれば無用でしかない。これによって泡沫コンテンツはそこで杜絶するか、ゾーニングされたが需要のあるコンテンツを扱うメディアのコバンザメとしてやっていくことになる。

このように区劃整備された状態は、おそらくポリコレの目指すところだろう。
ではこの先にはなにがあるのだろうか。

  1. 「更に厳格なポリコレ」の到来
    上のようにして少数の人びとに配慮した決断を下したコミュニティは、だからこそ、更に刺戟に耐性のない少数の意見を無碍にできない。配慮された少数の人の側から「お前は繊細すぎる」と言われる皮肉を、多数の人は論理的に受け入れられるとは思わない。結局は貿易における最恵国待遇のように、いうなれば SNS における最弱者待遇のような概念が生まれるのではないか。
    それによって、刺戟の小さなものばかりが作られ、少なくない人が退屈を感じるようになる。だが、いままで漸進的にポリコレの基準を更新してきた人びとにとって、適切な刺戟度のコンテンツがある SNS を探すことは難しいだろうし、今のように誰しもがやっている SNS もまた滅びるだろう。
  2. ポリコレによる過去の人・作品の分別
    これはもうアメリカで始まっていると耳にした。長いあいだ名作として親しまれてきた文学が、今の時代に即さないという理由で批判されたり、大昔の大統領がああいう思想をもっていたのが良くないと言われたりするらしい。
    その当時にそのような文化的な基準を現代のそれを以てしてわざわざ批判するのはかなりナンセンスだ。また、国語的な観点からしても、名作が禁書のように扱われてしまうことはその言語にとって大きな痛手となるだろう。
  3. 「暖簾」の内外における過激度の差
    便宜上、ここではポリコレに反した創作物があつまるコミュニティを"「暖簾」の内"と呼称する。ポリコレが厳格であればあるほど、一般的な空間—「暖簾」の外—と「暖簾」の内との温度差が大きくなってしまう。
    それによって、ポリコレがなければそのコンテンツに少しづつ触れることで寛容になれたかもしれない人が、「暖簾」の内外における過激度の差に驚いてしまい、そのようなコンテンツをまとめて拒絶してしまうことがあるかもしれない。
  4. ポリコレの形骸化
    (1)が根強く、(3)の影響が軽微だったときのもう一つのシナリオとして、「暖簾」の内のほうが住みやすくなる場合も考えられる。つまり大多数にとってポリコレが厳しすぎたとき、「暖簾」の内がデファクトスタンダードとなってしまうわけだ。そうすると結局、ポリコレを守らないほうが自由であることが明らかになってしまう。
    また、「暖簾」の内側にも新たな暖簾が作られることもあるかもしれない。そうなるとやはり、何がどのような理由で批判されているのかが次第に分からなくなっていく。
  5. 言論の不可能性
    今まではあえて「創作物」などといった言いかたをしてきたが、これが言説にもあてはまるとしたらどうだろう。例えば、炎上した際の「罵り合いにも似た非難の応酬」がどうしても苦手だという人が現れた場合、やはり言葉にもポリコレを持ち込むべきか。それとも言論の自由だけは特別に聖域として遵守されるべきか。
    虞らく多くの人がポリコレを適用すべきだと言うのではないか。なぜなら、創作して表現する自由や、それを見て楽しむ思想信条の自由は、どちらも言論の自由と比較できるものではなく、おしなべて守られるべきだからだ。ポリコレが適用されてしまった表現の自由と思想信条の自由を差し置いて、言論の自由だけを特別扱いすることを、他ならぬ言論が許さないだろう(少なくともこれを許す言論を私は信用できない)。

長くなったが、これこそが「過激さを含む作品を広く公表した創作者」が悪いと断言できない理由であり、ポリコレによって明るい未来が見えない根拠だ。

問題は、創作者の発信力は高まっていく一方で、受け手に十分なフィルタリング能力が備わっていないことではないだろうか。

URL フィルタの弱点

[2018-12-14 Fri].
では具体的にどうやってフィルタリングすればいいのか、という話になるわけだが、ここが非常に難しい。

現在インターネットのフィルタリングといって想像するのは、未成年に与える電子機器に搭載されるペアレンタルコントロールだとか、企業が従業員に対して行うもの、または google や WEB ブラウザがその URL を閲覧前に警告・非表示するものだろう。

これらはどれも、WEB サイトが含むコンテンツを確認し、 URL 単位で ブロックする。この URL 単位で という前提が、過激な創作物を避けるという名目において(あるいはそれ以外の目的についても)、今のフィルタの大きな欠点となっている。

なぜなら、受け手が見る WEB サイトは受け手が分かってアクセスしたサイトだからだ。
それなのに、である。それなのに、受け手は見たくない物を見てしまう。これは例を考えればすぐに分かる話だ。

想定はやはり SNS だ。不特定多数と相互に情報を送受信できる環境では、もはや SNS を含む投稿サイトの URL(タイムライン、ダッシュボード、etc.)はコンテンツではなく、それはメディアなのだ。十年前まで「WEB 空間 - 個別の WEB サイト」が「メディア - コンテンツ」という構図を表していたのに対し、今は「投稿サイト - ユーザーの POST」がこれを表している。受け手からみれば、多くの面白いコンテンツのなかに不快なものが混じっていると感じるだろう。

一言でまとめるならば、フィルタがブロックすべきなのはコンテンツであってメディアではないということだ。

個人用フィルタリングの必要性

[2018-12-15 Sat].
ではどのように「メディアではなくコンテンツのみをブロックするフィルタ」を実装するのか、となると私にはわからない。

それはさておき、ここからが私が真に言いたかったことなのだが、 オープンソースソフトウェアによる個人のためのコンテンツフィルタ が今必要とされているのではないかということだ。

多様なコンテンツを届けるのがメディアの仕事なら、それを選ぶ責任は受け手に生じるべきだと考えている。しかし WEB メディアはあまりに強大で、乱雑で、無数に存在しすぎていて、メディアごと切り捨てられるようなフィルタは役に立たなくなっている。

先進的な WEB メディアならばあるいはユーザーのためにフィルタを実装しようとする所もあるのかもしれない。ただ、もはやメディア一つにしか影響力がないフィルタは便利ではない。

だが、google のような大企業がこれを開発してしまうのはあまり健全ではない。巨大な検索力を提供するのと個人的なコンテンツブロッキングを同じ会社がやりだしたら、一極集中も甚だしいし、そのデータでパーソナライズされたフィルタ構成を検索に取り入れられたらそれはディストピアじみてくる。
だからあくまで自らの意思で見たくない物をフィルタリングしている、という安全性が(幾ら手間とはいえ)大切なのだ。

構想としてあるものを書いてみる。

  • そのフィルタをインストールした人は見たくないキーワードを設定する
    • ブラウザのアドオンとするのが現実的だろうか
    • keepassx のようなクライアントとアドオン分離型とか
    • キーワードのフィルタ粒度(パーセンテージ)も操作可能
    • ユーザーが増えたらキーワードの関連度から「おすすめフィルタワード」を表示できるようにする
  • 見たくないコンテンツに出会ったら、そのコンテンツを表すキーワードを送信する
    • コンテンツの作者がそれを意図していなくても、受け手が過激だと感じた内容を送信すること
    • 退屈だからといった意見は考えない(作者が嫌いなら作者のキーワードを作ってフィルタすれば良い)
    • 送信されたキーワードとコンテンツのペアは、同じキーワードをフィルタしている別のユーザーに共有される
    • フィルタ情報は同じ文化(言語?地域?)圏のユーザーにのみ共有されるならばなお良い
    • キーワードには含めないが、二度と見たくないコンテンツは共有されないが個人的にフィルタ可能(ブラックリスト化)
  • フィルタされたコンテンツを覗きみるオプションを有効化/無効化できる
    • 子供用のフィルタならば親が覗きオプションを切られるようにする
    • 覗いてみた結果やはり見たくない物だったらそのままでよい
    • 覗いてみた結果興味のあるものであれば、そのコンテンツに類似するコンテンツをフィルタしないようにできる(ホワイトリスト化)
      • これを受けたフィルタ情報側は、コンテンツ&キーワードのペアに付随した「刺戟度」のようなパラメータを減少させて共有する
    • この繰り返しにより、フィルタ自身が適切な粒度を算出できるようにする
  • このフィルタ情報が ipfs, torrent のような分散型のデータベースとして共有されるとより良い
    • ブラウザベンダーや巨大な IT 企業にデータをもっていかれない為

自分でもかなり風呂敷を広げてしまったと思う。 Start small の原則に著しく反している……。もし自分に十分実力がついたら、まずフィルタ粒度・コンテンツ刺戟度・文化圏・分散型の考慮抜きで実装を試みるだろう。

もし実装したい方がいるのであれば是非みてみたいのでパクって欲しい(このサイトにもコメント欄を用意せねば)(自分で書いておきながら誰も見てなさそうなページだが……)。

フィルタリングとポリコレの利点

[2018-12-15 Sat].
フィルタリングに注力することで、他人の意見との干渉を考える必要がないことが気楽だと思う。

  • 自分で確認しなくても自分の見たくないものを見なくて済む
  • 自分が何を(どの程度)見たくないか分かる
  • 世間に変わってもらうことを期待する必要はない
  • 自分の嫌がることについて誰かに説明する必要がない

一方で、よりリアルに影響するので、ポリコレを蔑ろにしていいわけではない。思考のアップデートは如何なる立場でも必要だ(かといって全ての価値に迎合する必要はないが、世の建前として程度には知っておくほうが融通がきくだろう)。

  • 世間の、コンテンツに対する立ち位置(どれくらいメジャーなジャンルか)を把握できる
  • 他者のコンテンツに対する意見を知る機会が得られる
  • 現実の世界(WEB 空間ではない)に実効的な影響力がある

ポエム(おまけ)

[2018-12-15 Sat].
ポリコレのような、他人にお願いして世界を変えてもらうような潮流を疑ってみなければならない。

良くも悪くも他人を変えることは出来ないのだから。
世界で変えられるのは自分だけで、しかしそれは難しいことだ。
ただ、自分が変われば世界の見方が変わり、結果として世界が変わったと思えるときが来るかもしれない。

Created: 2021-03-17 Wed 17:06

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